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大阪情報サロン

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東大阪新都心・東大阪総合庁舎から

▼3年振りに東大阪総合庁舎展望ロビーを訪れました。東大阪JCTの北東、東大阪新都心地区にあります。生駒山からだと中之島まで15kmはありますが、ここからだと淀屋橋まで約10kmとなります。写真はロングで大阪都心方面全体を捉えています。
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▼中之島・梅田・京橋を入れて、少しズームアップしました。
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▼難波を中心に、左は天王寺まで入れています。難波方面は遠近の重なりはありますが、しかし天王寺は少ないです。今後に期待したいですね。
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▼反対の東方面、生駒山です。高さ642mの山の上にテレビの電波塔が並んでいます。大阪は天然のテレビ塔があります。
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▼東大阪南部から八尾方面です。信貴山方面のなだらかな山の稜線が印象的です。
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◆3年前と比べて高層ビルはかなり増えていると思いますが、梅田・中之島方面はそう変らないようです。難波周辺は激増しているのが分かります。展望ロビーは庁舎の22階で、同じ階に展望レストランもあります。
◆ここは大阪府の東大阪新都心地区として、整備計画が進められている地区です。この庁舎以外に「府立中央図書館」「府営春宮住宅」「商業施設・カルフール」などが完成しています。
すぐ西側は大阪中央環状線(中央は高架の近畿道)が南北に走り、東西に阪神高速東大阪線が通る大規模なJCTがあります。大阪中央環状線の西側も業務流通地区として集積が進んでいます。
◆大阪府の新都心計画としては、三つあり「千里新都心」「東大阪新都心」「中百舌鳥新都心」です。このうち、目標を達成しているのは「千里新都心」だけといわれています。新都心といっても、これは東大阪市の新都心ではありません。大阪都心に対する大阪の新都心です。三つとも府下ですが、それが大阪という都市であり大阪都市圏の一部を担う新都心です。
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by osaka-salon2 | 2008-11-30 21:45 | 大阪の景観

御堂筋・今年の秋もフィナーレ

▼11/30:御堂筋の銀杏も、黄葉がクライマックスを迎えているようなので少し撮影してきました。
御堂筋と新御堂筋のY字交差点東側、アメリカ総領事館前の銀杏です。
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▼淀屋橋付近の御堂筋の銀杏
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▼御堂筋高麗橋付近から南を望んだ御堂筋
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by osaka-salon2 | 2008-11-30 18:15 | 四季の表情

【再録版】大阪をどうつくるか?〔その5~〕

e0161853_10265028.jpg【その5】「環状線に新大阪を取り込む」このプランがなぜ必要なのか? その理由は環状線の成立に深くかかわってくる。

まず、1889年関西線が開通後、天王寺と梅田を結ぶ環状線の東側、城東線が建設された。その後、近鉄阿部野橋や阪和線もできて天王寺ターミナルが成立する。
これらの路線と長距離幹線駅の大阪駅を結ぶ目的で環状線の東側部分、天王寺-玉造-大阪間が建設されたのである。

しかし、新大阪駅ができたとき、地下鉄だけは新大阪まで延びてきたものの、肝心の国鉄線は、東海道線に乗り換えの在来線ホームがつくられただけで、大阪の市街地の天王寺・京橋と結ばれるはずの、環状線はつくられなかったのである。

これは片手落ちというものであろう。いまから考えれば、新大阪駅の位置をのむ条件として、新大阪を結ぶ環状線の建設を国鉄に要求すればよかったのである。そういう政治力というのも時には必要である。

この事情は東京も同様で、上野と新橋の間が結ばれておらず、東北線と東海道線・新橋駅を結ぶ目的で山手線・赤羽-品川間がつくられた。(本来の山手線は赤羽-新宿-品川で、池袋-田端間あとから追加された)

この拡大された環状線が完成したとき、大阪はどうなっているか?
都心が淀川の北側にも拡大し、およそ2倍近くの都心面積となる。そのころには梅田北ヤードも完成し、梅田の力量はさらに大きなものになっているだろう。

新大阪へのアクセスも飛躍的に向上して、京橋・鶴橋や天王寺・弁天町などからもダイレクトに行ける。これで本当の意味で梅田の北に都心が拡大することになる。

大阪の都市規模は東京のおよそ半分、しかも東京の東半分などと揶揄する声もある。一面では事実であるけれど、この拡大環状線によって、大阪の都心面積が広がり、大阪の力量は東京の8割くらいまでパワーアップする条件ができることになる。
(平成17年10月4日作成)
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e0161853_10274485.gif【その6】いまもときどき京阪、とくに大阪を指して「上方」という言い方がある。
東京から見て、上り下りが逆転していた近世の名残りのようである。近畿地方の産物は江戸では下り物として重宝がられたそうで、「下らない」がつまらない物の語源だそうである。

ともかく大阪は多様な文化を生み育んだ都市である。民の都の花を咲かせた大阪であったが、どこかで間違いが生じたのであろうか。いつしか地盤沈下だのという有難からぬイメージになった。せめてプライドだけは持ってほしいと願うのだが・・・
ここであまり関係ない愚痴はともかく、本題を続ける。

私だけの持論なのだが、大阪の都市構造なり、鉄道網の発達史などをよく研究してみると、じつは大阪と東京は非常によく似ているのである。他の日本のどの都市も大阪と全く違うのだが、東京だけはそっくりなのである。あんまり東京なんぞと似てほしくないのだが、まるで兄弟と思えるほどである。

細微な違いは、大阪が政府の援護がなかったことなどの理由によるのであろう。東京はその点で完璧なまでの鉄道網を備えるに至っている。大阪は東京を見て、足りない点はむしろお手本にすべきであろう。


e0161853_10375136.gif〔その4〕に載せた大阪環状線の拡大構想の地図を南北逆にして、同じ縮尺の東京の地図とを2枚載せて見る。
こうして並べると、拡大環状線の構想も京橋-新大阪間は東京の新宿-品川間に当たり、間違って大阪では実現していない部分だったのである。

大まかに言って、大阪駅に東京駅を重ねると、新大阪は品川、京橋は新宿、天王寺は池袋、難波は上野にちゃんと対応しているのが分かる。

天王寺はよく上野に似ていると言われている。天王寺公園に上野公園、新世界に浅草、通天閣に相当する稜雲閣というのもあったそうだ。しかし鉄道発達史からは、JR難波が上野である。
これも細微な違いの一つで、大阪では、上野の機能が天王寺と難波に分散されたのであろう。本来ならばJR難波から大阪駅までの市街を貫通して結ばれるはずであったが、大阪環状線は今宮-西九条間を結ぶかたちで都心部を迂回してしまったのである。

JR難波-大阪間の計画は実際にあったのだが、これは現在では「なにわ筋線」に継承されている。

鉄道網の形成過程は東京もほぼ同様であるものの、品川-新橋(烏森)-東京-上野間の高架線は、東京駅建設という国策的な強力な計画もあって、順次つながっていったのであるが、鉄道ターミナルは市街地につくれないという原則が東京駅だけは例外になっている。
そのへんの事情は山手線の歴史でも説明されているので参照されたい。

京橋-大阪間はいまは環状線になっているが、本来は新宿-東京間の中央線に相当する。南北に長い環状線を東西に貫通し短絡する路線だったのである。そして京橋から先は学研都市線につながる。大阪-京橋-四条畷-木津間の学研都市線は中央線だったのである。
(平成17年10月10日作成)
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by osaka-salon2 | 2008-11-29 10:43 | 街づくり提言

30年前:福島区鷺洲からの景観・・・

もう少し古めの写真を続けます。
昭和54(1979)年の福島区鷺洲から、大阪の景観はどんな感じなのか?

▼先日の写真はかなりの望遠レンズですが、標準レンズに交換して撮影したのがこの写真。
まさしく平べったい街並みが続いておりました。
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▼これは夜景写真と似た構図です。かろうじて梅田が視野に入っています。第三ビルが建っているのがわかります。撮影目的は手前のDD51の牽く福知山線普通列車でした。
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▼もう一枚は反対側の淀川の右岸・北部って、「電車でしょ」わかります。現在と変らないようでも10階建て程度のマンションが激増していますので、景観が全然今と違いますけどね。
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◆今回はこのへんにしときます。
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by osaka-salon2 | 2008-11-28 14:52 | 古めの写真

堺市役所:展望ロビーから

今回は堺市役所からの眺望です。
高層庁舎の21階が展望ロビーになっています。ロビー北側フロアには喫茶ミ・エールさんもあります。
▼北側ロビーからは遠く大阪都心の高層ビル群も望めます。
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▼もう少し引きつけて、中之島から東は上本町あたりまで。中之島まで13kmくらい。
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▼北東方面、近くの超高層はJR堺市駅前の「ベルマージュ堺」のツインタワー。手前の森は反正天皇稜、遠く生駒の山並みが続いています。
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▼南東方面、大きな緑は仁徳天皇稜、左横は三国ヶ丘のマンション群。遠く金剛の山並み。
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◆私はもともと大阪市内の生まれなんですが、むかし一時期堺市民で、中百舌鳥に住んでおりました。国鉄阪和線で通勤したり、南海高野線も馴染みです。
三国ヶ丘の地名は三つの国の境の意味でしょうね。堺自体が境目の意味なんですからね。
摂津・河内・和泉の国境です。大阪市内から堺に行くには、大和川を渡ると堺のような感覚は誰もがあると思います。細かな境界はともかくこれは事実ですが、もう少し時間のスパンを長く古代に思いを馳せると、当然ですが大和川なんてありませんでした。わずか300年前に造られた人工の河川ですから。

つまり、上町台地の延長にあったわけです、堺というのは。
もともと大阪市内と地続きだったのが堺です。そして大阪市内の住吉や阿倍野はバリバリの摂津、それどころか堺市役所のある堺東も摂津。ていうか、境=堺なんですよ。しかも堺東は三国ヶ丘より北だもんね。ほんと天王寺から堺東までわずかに8kmしかないのですよ。

何が言いたいのか、堺市というと百舌鳥古墳群があって、仁徳天皇稜とか強調されるじゃないですか。なぜか古代の中心であったような錯覚さえします。つい忘れますが、都の宮殿は大阪城の近くの上町台地なんですね。仁徳天皇の皇居は難波・高津宮です。
結局、陵墓だけは堺であったり、近つ飛鳥の羽曳野・太子町であったりしますが、重要なのは宮殿で、これは難波にあったのです。

▼21階の北側展望室です。
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by osaka-salon2 | 2008-11-27 14:41 | 大阪の景観

【鉄道写真】複々線の並走-塚本【懐古】

古い鉄道写真が出てきたので、スキャンしてみました。

▼塚本のホームから大阪方、撮影は昭和54(1979)年7月21日、時刻は17:00丁度
左からDD51牽引上り福知山線客車列車、上り153系新快速、下り103系緩行、下り気動車急行みまさか5号・但馬7号、とくにDD51の客列車の全力疾走が迫力!
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▼別の日に同じ17:00に塚本で撮影したもの。この日は下り緩行電車が遅れていた。
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◆いささか趣味的な写真で、興味のない方には退屈かもしれません。鉄ちゃんはこんな写真を撮影して喜んでいました。私も鉄のハシクレでした。
この写真を見ても分かりますが、塚本の大阪方はすぐに下淀川橋梁です。大阪までひと駅です。現在はJR神戸線ですが、大阪-塚本間には駅がないのですね。
同様に新大阪-大阪間にも駅はありませんが、この間にたとえひと駅でも駅をつくるべきです。
なぜか、何千億円の事業費で地下鉄つくるより、少ない工事費で地下鉄つくったと同じ効果があります。費用対効果が抜群ですね。
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by osaka-salon2 | 2008-11-27 10:05 | 古めの写真

【再録版】大阪をどうつくるか?〔その3~〕

e0161853_23341649.jpg【その3】■新幹線梅田乗り入れの可能性
一般的な議論にはなっていないが、一部の人たちの間に新幹線の梅田延長を望む声がある。大阪の街の発展の為にはいまの新大阪ではダメだという。
わたしはその意見を読んで、少し意外な感じを持った。梅田に新幹線の駅があればよいに決まっている。しかし、東京中心の国土計画からすると、実現の可能性が極めて小さいように思えたのである。
このような発想なり意見があるのは、なぜだろうか。思い直してみることにした。

新大阪の街の評価はあまり芳しくない。その最大の要因は新大阪が都心に認識されないことにある。街外れの街のイメージを拭いきれない。
わたしなりに検討した結果、他の都市の理解も得られる方法で可能なことが分かった。路線のルートと運転系統も、無理のないかたちでできる。

あとはやる気の問題だけである。大阪の行政なり財界がその気になれば十分実現可能である。
東京駅の新幹線はホームが並列しているものの、東海道と東北は分断されている。そして東海道方に品川駅、東北方に上野駅を持つ。スルー方式の新大阪駅と、新たに梅田に終端形の駅を設ける。東京とのバランスを考えてもそう無理なことではないと思う。

新幹線を計画する段階で、最初から大阪駅に新幹線が乗入れていたら、梅田は凄い街になっていたに違いない。反面、いまの新大阪はどうなっていたかを考えると、これでよかったともいえる。
すでに新大阪という街ができ上がったあとだから、両方の街にプラスとなる梅田乗入れ線を別に延長して「新大阪駅」と「大阪駅」の二つの新幹線駅をつくるのがベストである。
(平成17年9月29日作成)
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e0161853_23405328.gif【その4】新幹線の梅田乗り入れについては、私なりに実現への手法というか案を持っているが、それは後回しにして、私としてはそれよりも重要と考えていることを先に書く。

まず大阪の都心機能の北への重心移動が必要な理由である。新幹線や高速道路ができるまでは、鉄道も道路も梅田を経由していた。ところが新大阪駅ができたり、名神・中国自動車道などが開通してからは国土軸の考え方が重要になってきた。

いまでは大阪の街のはるか北側に国土軸があると考えられている。これでは大阪をスルーどころかパス状態である。東京以外の都市はすべてパスできるように考えられたのが日本の高速道路網なのだ。逆に新幹線も高速道路も「東京だけはパスできないようになっている」のだからあきれる。
街の外れに国土軸があってパスされるのであれば、大阪の街を国土軸の上に移動させる他はない。

それと、いろんな都市の例を見ると、古いしがらみの市街地に重層的に街をつくるよりも、新しい市街地をつくる方が、はるかに効率的に立派なものがつくれる。東京がいまの規模になり得た理由もそこにある。

もう一つは、新幹線の梅田乗り入れが実現するしないにかかわらず、新大阪をJR環状線の輪の中に入れる必要がある。新大阪が街外れのイメージが拭えないのは、環状線の中にないからだ。都心という概念は環状鉄道によって認識される。新大阪を都心と呼ぶにはこれに尽きる。
新大阪をどうしてJR環状線に取り込むか? いまの環状線を広げるしか方法はない。
さいわい、大阪外環状線計画の北区間が未着工なので、一部ルートの変更をして、京橋駅につなげる。

運転系統としては現在の環状線・大阪-京橋間は学研都市線に接続し、京橋駅はできればホーム2面方向別4線の配置にする。大阪外環状線の南区間の放出-加美間は工事中であるが、そのままJR東西線につなげてJR宝塚線・神戸線系統とする。

いまの城東貨物線が野江方向から京橋駅につなげるのは、敷地や勾配の条件から難しいかもしれない。(もともと廃止された線路敷地があるのだが)

京橋駅の方向別2面4線化が無理な場合は、別にホームを設けて、地図に書いたように森ノ宮近くまで並行し、いまの大阪城公園駅を方向別2面4線にする。その場合、環状線東側の広大なJRや地下鉄の電車基地、それに清掃工場などの低利用地をすべて廃して、OBPをはるかに上回る副都心の建設が可能となる。

環状線の系統は天王寺・鶴橋方面から、京橋でそのまま淡路・新大阪へと行ける。新大阪-大阪間は複線の増設が必要である。中間の豊崎付近には駅を新設し、環状線とJR京都線の両方にホ-ムをつくりたい。
大阪から先は現在の環状線につなげて西九条-新今宮-天王寺とするのがよい。北ヤードの地下に設けられる予定の駅は「なにわ筋線」として、新大阪-JR難波・南海汐見橋間をつなぐのがよいだろう。
(平成17年10月1日作成)
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by osaka-salon2 | 2008-11-26 23:41 | 街づくり提言

【モノクローム】ちょっと古めの写真から

古めの白黒写真がでてきましたので、スキャンしてみました。
撮影はすべて昭和53(1978)年です。

▼現在の大阪駅南口の駅ビル、「アクティー大阪」ができる前の大阪駅本屋です。アクティー大阪の工事が始まる前に、準備工事として大阪駅北ビルを建設しています。北ビルに駅施設を収容してから、この駅舎を取り壊して「アクティー大阪」の建設工事にかかったわけです。本屋(ほんや)とは駅の主要な建物の意味で、主に表側の建物。国鉄時代からの部内用語。
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▼この写真はアップですから、このあたりは現在とあまり変化がないですね。ですが梅田の超高層ビルは「阪急ブランドビル」「大阪マルビル」しかなかったはずです。
大阪タワーからの撮影になります。
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▼この写真は淀川近くのマンションからの撮影で、国鉄の153系新快速を狙ったものです。
超高層は堂島のNTTデータビル、これは意外に古いのですね。右の超高層は大阪国際ビル、淀屋橋方面に頭を出しているのは日商岩井ビルです。
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◆蛇足をいえば、30年ちょっと前の大阪って、ビルが少なくて平べったいですね。
大阪タワーからの写真は梅田全体を写したのもあるんですが、今日でてきた中にありませんでした。探してみるべきかな~、なんて考えております。
まだありますので、面白い写真はぼちぼちアップしてみたいと思っています。
▼もう一枚追加します。
上の写真から9年経過して、昭和62(1987)年2月梅田方面の夜景写真です。3枚目と同じマンションから撮影。これを見ると高層ビルが増えて「アクティー大阪」「吉本ビル(ヒルトン)」「梅田センタービル」などが加わっています。
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by osaka-salon2 | 2008-11-25 21:41 | 古めの写真

08’プロジェクト近況

▼梅田阪急ビルの様子です。阪急グランドビルを抜いていますが、まだまだ伸びます。
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▼阪急ビルの百貨店部分。外観はできてるみたいですね。後方には富国生命ビルが続きます。
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▼堺筋の(仮称)KM複合ビルです。もう最高部まで達して、あとは内部の工事でしょうか。
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▼同じKM複合ビルですが、低層棟の商業施設部の工事は最盛期になっていると思います。
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▼おまけの今日の御堂筋です。
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by osaka-salon2 | 2008-11-25 20:58 | 08’プロジェクト

【再録版】大阪をどうつくるか?〔その1~〕

e0161853_1243166.jpg【その1】
鉄道の駅は街をつくるといわれる。
大阪駅ができて今の梅田があり、新幹線ができて今の新大阪がある。江戸時代の大阪の市街地は「船場」を中心に展開していた。大阪三郷とも呼ばれるが、周辺を加えても「西船場」「島之内」「天満」あたりまでが当時の大阪の街の範囲である。

じつは鉄道のターミナル駅は市街地に入れないのである。駅や線路をつくるには広い面積を必要とするので、市街地中心に駅を設けることができなかった。至極当り前の話である。
市街地に入れるようになったのは地下トンネルを掘る技術が容易になった最近のことである。それでも大規模な駅はつくりにくい。だからターミナル駅は市街地外縁に設けられた。

大阪駅だけでなく、「阪急梅田」「京阪天満橋」「近鉄上本町」「南海難波」「阪和天王寺」など、それぞれの駅の立地はその時代の大阪の街の大きさを示している。
最も新しい阪和線(昭和4年の開通当時は私鉄の阪和電鉄)の天王寺駅は市街地の一番外側にあるのもそんな理由からである。

大阪駅が開業した明治初頭、大阪の市街地は堂島までだったと考えて間違いなさそうである。他の都市の中心駅もほぼ似かよった理由で旧来の市街地から外れている。
そんなことを考えると、大阪駅ができた当時、梅田は田んぼだったとよく不思議そうに書かれてあったりするが、当り前のことだったのだ。昭和39年開業の新大阪駅の位置にしても妥当性がありそうな気がする。(山陽方面への延長が有利なのは小学生でも分かる)

しかし東海道新幹線は東海道線の線増の意味あいもあって、在来線に沿うようにすれば大阪駅につくることも難しいことではなかった。便利さと広域からの利益の取り込みは大阪駅の方が格段に優っていただろう。しかし、北部への重心移動も必要と考えているので、大阪にとってどっちがよかったは判定できない。
大事なのは総合的なビジョンである。鉄道交通において大阪市は市営地下鉄に力を傾注するあまり、一企業、一私鉄と同様の思想を持って、市域内において権利を振りかざしたのである。

大阪市域が狭いことも災いして、これが大阪の発展にマイナスに作用した。大阪市の思想は市域内を念頭におかれた結果、広域的な見方ができなかったのである。
結果として、他の鉄道事業者との協調歩調がとれず、相互乗り入れの路線が極めて少ないものとなった。

ようやく阪神西大阪線・西九条-難波間や、京阪・中之島新線の工事が施工されるに至ったのは喜ばしい限りである。阪神西大阪線の如く、わずか数キロの路線でも両端で既設線と結ばれることによって、計り知れない効果がある。
(平成17年9月25日作成)
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◆HPからの【再録版】について:
HPの更新ができない状態が続いて、申し訳なく思っています。
まだブログの扱いの習得が不十分ですが、記事の保存もあって重要な項目をブログに再録していくことにします。

e0161853_168465.jpg【その2】
いつの頃からか、大阪の重心は北へ移動してきた。
かつて梅田が北限だった大阪の街が徐々に北へ移動し、いつのまにか梅田以北に重要な街がいくつも出来上がっていた。「新大阪」「江坂」「千里中央」がとくに重要だろう。新御堂筋沿いの、それより北の箕面にも「箕面船場」なる街もある。どれもちゃちな街ではない。
箕面船場(コムアートヒルとかの名前)なども、北摂箕面の山の手前に突如としてビル街が出現するのは驚きである。

最近は都心回帰の時代になって多少元気がないが、これらの街は昭和40年、50年代にすごい勢いで増殖していった。
昭和30年代の初頭、日本最初の大規模ニュータウン「千里NT」が造成された。この頃の大阪の行政は何を考えて大阪の街づくりをしていたのであろう。
北への移動は、この千里NTと新大阪駅の位置で決定的となった。大阪の街の北限だった梅田の北には800m近い幅を持つ淀川が横たわっている。ある意味では邪魔な存在である。

当時の大阪の行政は、この淀川の北に新しい大阪をつくろうと考えたのではないか。
当時の大阪は狭い都心に、都市機能がひしめき混雑を極めていた。道路の渋滞も現在の比ではなかった。そして問屋街、流通機能の郊外移転が図られた。「新大阪センイシティー」「箕面船場」もこの流れで計画移転した施設である。

そして昭和45年、大阪万博が開催された。人類の進歩と調和のテーマのもと、経済成長の集大成がそこにあった。千里丘陵は沸きに沸いた。地下鉄御堂筋線も千里万博会場まで延長されていた。
さて、淀川の北の北摂の開発は何だったのか。大阪の街は南北に長く楕円形をしていると考えられる。大阪府も南北に長く街の形態に対応している。

白い長方形の紙、A4用紙でも想定してみよう。この紙を縦にして半分に折ると真ん中に折り目が付く。折り目は横たわる淀川である。そして下半分が旧来の市街地で、すでに出来上がっている。残るは上半分に新しい街をつくることになった。
新市街のデザインは? A4の紙の下半分に南北に御堂筋線を描き、そこに旧都心の街を描く。「梅田」「心斎橋」「難波」と・・・インクが乾かないうちに、もう一度折り目で折ってみる。紙を開くと、上半分のところにインクの印が残る。
それが「新大阪」「江坂」「千里中央」ではないか。私は北摂の街をそのように考えたのである。
梅田から真北に向けて直線的に鉄道と道路が敷かれた。単なるインフラではない。大阪の都市機能の一部を担う重要なインフラである。

まず、大阪駅に対して「新大阪駅」これは当り前。道路は旧市街の御堂筋に対して「新御堂筋」と名付けられた。このネーミングこそ新しい大阪の街づくりを象徴的に現している。
そう、淀川の北に「もう一つの大阪を相似形につくろう」。行政がそう考えたかは分からないが、私はそう考えた。

ここで行政というのは大阪府のことである。江坂も千里も箕面も大阪市域外のことだから大阪府の仕事である。とにかく当時の大阪府は街づくりに対して馬力があった。
(平成17年9月26日作成)
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by osaka-salon2 | 2008-11-24 13:22 | 街づくり提言